絶賛発売中!

倪夏蓮物語 生きるレジェンド。
19歳で世界金メダリスト。
38年後の世界選手権でも
メダルを獲った

2023年7月、還暦の祝杯をあげるがごとく、WTTフィーダー・ハビジョフ(チェコ)で中国の若手を3人倒し、優勝を飾った倪夏蓮。「これは私にとって初めてのWTTのタイトルです。私には世界中に多くのファンがいます、そしてそれが私のモチベーションです」と60歳の倪夏蓮は語った。

まさに「生きるレジェンド」。19歳の時に中国代表として世界選手権デビューを果たし、金メダル2個を獲得し、それから38年後の2021年世界選手権ヒューストン大会では58歳で史上最年長でメダルを獲得した。もうこんな選手は現れないだろう。

卓球王国では倪夏蓮と漢字名で表記している。1983年の世界選手権東京大会で団体とダブルスのタイトルを獲得。当然の漢字表記を踏襲し、本人のサインも漢字になっている。それは本人のアイデンティティーでもある。音読みで言えばゲイ・カレン。中国の発音に近い形で、ニィ・シアリエンと表記する。

倪夏蓮(ニィ・シアリエン)は上海で生まれ育ち、14歳の時に上海の代表チーム、 1979年、16歳の時に中国の国家チームに入った。83年東京大会が初めての世界選手権で、団体と女子ダブルスで優勝した。85年世界選手権イエテボリ大会にも出て、女子ダブルスで準優勝、混合ダブルスで3位になっている。

1983年世界選手権東京大会の倪夏蓮。団体と混合ダブルスで金メダルを獲得した

「79年に国家チームに入った時は表ソフトの速攻型でした。そのプレースタイルで全中国選手権で2位になったけど、首脳陣は私の力はまだ十分でないと思っていた。国家チームのコーチだった周蘭孫が、私の速すぎる卓球を少しスローダウンさせるために『粒高を使うのはどうだろう』と言ってくれました。でも、それをやってもし失敗したら、私の選手としてのキャリアが終わるから、最後は私自身が決断し、82年に変えたんです」(倪夏蓮)。

粒高に変えてから3カ月後の大会では成績も良くなくて、倪夏蓮は迷っていた。その時に孫梅英コーチがアドバイスをくれた。「倪夏蓮、何を焦ってるの? まだ3カ月しか経っていない。多くを期待したらダメでしょ。もう少し時間がかかるんだから」と諭した。焦っていた倪夏蓮は孫コーチの言葉に救われた。

「粒高は相手の回転を利用する守備ラバー」
という概念を倪夏蓮は変えた

1979年の世界チャンピオンに葛新愛(中国)がいる。ペンで粒高ラバーを使っていたが、彼女はカットとショートの守備タイプだ。世界卓球史上、粒高を使い成功した初めての攻撃型が倪夏蓮だ。「私はもともと表ソフト速攻型だった。粒高の基本的な技術が全く違う。粒高での攻撃スタイルというのは、基本的な技術がなかったらできないのよ」。 

倪夏蓮は86年2月に国家チームを離れ、勉強と卓球のために上海交通大学に入った。まだ22歳だったけれど、大学で勉強しながら、上海チームのコーチもしていた。 
その頃の中国は開放され、海外に行く人が多かった。倪夏蓮も日本行きを考えたが、最終的にはドイツに行くことを選び、3、4年間くらいドイツにいて、中国に戻るつもりだった。90年6月にルクセンブルクに移り、ナショナルチームとクラブチームで活動するようになった。
欧州の小国ルクセンブルクではプロ選手としての生活は難しかった。94年にコーチのトミー(・ダニエルソン)と知り合い、その後に結婚する。ふたりは不動産の仕事をしている。「私は卓球選手だけで暮らしているわけじゃないのよ」(倪夏蓮)。 

2021年に開催された東京五輪には58歳で出場した。5回目の五輪だった。

夫であり、コーチ、そして最大の理解者である
トミー・ダニエルソン

倪夏蓮は木材の7枚合板に粒高のVICTAS「カールP1V」と表ソフトの「VO>102」を使用しているが、粒高ラバーの「カールP1V」は最大の変化を持つ粒高で、変化守備で最大効果を発揮するラバーで有名なのだが、倪夏蓮は守備のみならず、このラバーで攻撃するのだ。そんな奇想天外な選手は希少だ。
ブロックする時でも僅かなタッチでミスをしてしまう「カールP1V」。最大の変化を持つという意味は、最大の難しさをこのラバーが持っていることを意味する。さらに、そのラバーで攻撃することは通常の粒高使用者でも非常に難しいのだ。
そして、相手のボールの力を利用できない時にはくるりと反転させて、表ソフトで速攻を仕掛ける。もともと表ソフト速攻型だった倪夏蓮にとって表ソフト速攻は自然なものだ。

58歳で東京五輪の舞台に立ち、
その後の世界選手権では
史上最年長のメダリストとして
表彰台に上がった

倪夏蓮は2021年の東京五輪の後に休暇を取り、リラックスした時間を過ごした。大会後に自分は卓球を続けるべきかどうかも彼女は考えていた。でも、結論が出る前に9月にすぐヨーロッパ選手権があった。

東京五輪後の2021年世界選手権ヒューストン大会の前のWTTスロベニアでは準々決勝では中国の主要メンバーの王芸迪(世界ランキング4位)に勝った。「王芸迪はとても強い選手だし、中国選手団はショックを受けたと思う。『もう一度中国チームに戻りましょうか』と言いたかったわね(笑)」。 

世界選手権ヒューストン大会の女子ダブルスでは、2回戦でチャイニーズタイペイペアに最終ゲーム、2-9とリードされ、8-10から2度のマッチポイントを握られながら逆転して勝った。 3回戦の香港の杜凱琹/李皓晴も強いペアだったが、パートナーのサラー(・デヌッテ)も好調だった。
「(29歳の)サラーとの関係は、私が彼女のママで、トミーはパパのような特別な関係なのよ。サラーは私の息子と同じ年で、いつも私たちの家に遊びに来ていた。彼女は自分の子どものような存在なんです」(倪夏蓮)。
 そして香港ペアを破り、倪夏蓮とサラー・デヌッテは女子ダブルスでメダルを獲得、ルクセンブルクとしては初の世界選手権メダルに大いに沸いた。
倪夏蓮は 世界選手権史上、最年長の58歳のメダリストとなった。

「とても素敵な瞬間でした。戦術的にもベストゲームだった。試合に集中していたから、最後のボールが床に落ちた時に初めて『本当に勝ったのね!』と感じ、信じられなかった。
サラーはまだ若かったし、ヨーロッパ選手権でメダルを獲ったことがあっても、世界の舞台は別物。彼女は過去にも大事な試合で緊張したり、力を発揮できなかったこともあったけど、今回は自分をコントロールしていたわね。自分自身と彼女を誇りに思っている。ルクセンブルクに帰ってきてからはお祝いの嵐よ(笑)。トミーと一緒に三人でハッピー、ハッピーで笑顔を振りまいているの(笑)」。

2021年世界選手権ヒューストン大会で女子ダブルスでメダルを獲得した倪夏蓮。
58歳のメダリストの誕生だった

ベルギー、ドイツ、フランスに接する小国ルクセンブルクの人口は61万人。金融機関の多い国で一人あたりのGDPは世界一位になっている。61万人の国から世界メダリストが生まれることがどれほど価値のあるものか。しかも、ルクセンブルクに30年以上住み続ける倪夏蓮と、ルクセンブルク生まれのサラー・デヌッテのダブルスが国民を歓喜の渦に巻き込んだ。

「ルクセンブルク生まれの選手と勝ち取ったメダルは価値があります。ルクセンブルクは『私たちの国は小さいから、これはできない、これも難しい』と考えがちだけど、『私たちはできるのよ、大丈夫!』と世界のトップクラスのレベルに行けることを示したかった。みんなが喜んでくれて、ハッピーになりました」(倪夏蓮)。

 「ルールやボールが変わっても適応してきた。今でも卓球を改良している」

世界選手権ヒューストン大会の女子ダブルスの表彰式にルクセンブルクの親子のようなペアは立ち、国旗を見つめた。同時に倪夏蓮は祖国の国旗を見つめていた。彼女の中で様々な思い、様々なシーンがフラッシュバックされた。

「とても感慨深かったわね。38年前と36年前に表彰台に立ったけど、いろいろなことを考えていた。38年前の表彰式では中国チームだった。優勝して、今回の王曼昱と孫穎莎と同じ場所に立っていました。
表彰式で急にその38年前の思い出が蘇った。でも、私は38年前よりも今の自分に誇りを持っています。私のパートナーは38年前と36年前は世界チャンピオン(郭躍華と曹燕華)だったけど、ヒューストンでは世界75位のサラーなのよ。ルクセンブルクの環境の中で私たちは練習し、中国と戦った。それは感情を揺さぶられるような経験でした」。

中国で卓球を始め、栄光の中国代表チームの一員として倪夏蓮は世界で優勝した。中国代表になること、世界選手権に出場することが誇りであり、代表になったら金メダルを獲ることは「使命」だった。
ルクセンブルクに移ってからの彼女にとっての卓球は楽しみであり、生活そのものだった。倪夏蓮にとって人生を楽しむことは卓球を楽しむことだ。そして、いつも全力で戦う彼女に卓球の神様は微笑んだ。

「私自身、ルールやボールが変わってもそれに適応しようと思ってきた。私はね、今でも挑戦を続けている。生き延びなければいけないから(笑)、今でも卓球を改良しようとしているんです」。
1983年に世界の舞台に飛び出した倪夏蓮。「両面異色ルール」(1983年)、「スピードグルー時代」(1980年代)、「粒高の形状比率変更」(1999年)、「21点制から11点制へ」(2000年)、「38mmボールから40mmボールへ」(2000年)、「スピードグルー禁止」(2008年)、「セルロイドボールからプラスチックボールへ」(2014年)とルールや時代は変遷し、どれもが粒高使用のj倪夏蓮にとっては辛いものだった。しかし、その波を157cmの小さな巨人はすべて乗り越えてきた。

ヨーロッパ選手権、ヨーロッパトップ12などの大会で
優勝し、世界ランキング最高位は4位 

1970年代、倪夏蓮は激烈な争いの末に上海チームから国家チームに引き上げられた。上海チームには、のちに世界チャンピオンになる曹燕華、小山ちれ、という選手がいた。伝統的に卓球スタイルが多様なチームだった。そこから国家チームに入るだけでも、中国の卓球界の中では名誉なことだが、代表としてせ世界選手権に出るのはまさに生き馬の目を抜くような競争を勝ち抜かなければならない。

「中国時代、私は卓球のことだけ、自分の技術がどううまくなるかしか考えていなかった。コーチとの人間関係や周りの人との関係など考えず、社会的なことはあまり興味がなかった。でも26歳で中国を離れ、長い間にいろんな経験をして、人それぞれの悩み、長所と短所や人間関係があることを悟りました。卓球の練習でも、環境でも政治でも、良い面と悪い面があるものだと。
私はこれからもチャレンジしていきたい。人生を楽しんでいきたい。チームがもし私を必要とするなら、卓球は続けていきます。誰かが難しいと言っても、挑戦していくのが自分の性格なんです」。

ルクセンブルクだからこそ、倪夏蓮が長く第一線で世界の舞台に立てたとも言えるし、ルクセンブルクだからこそ、彼女が自分らしい人生を作ることができたとも言えるだろう。彼女が「元中国代表」としてのプライドを見せるのは国際大会だけであり、その時に、中国のトップ選手や若手を破る時に、彼女の元代表の燃えるようなプライドが垣間見える。そのルクセンブルクに住み、卓球をしていることも彼女にとっては運命と言えるだろう。

卓球の神に愛されてきた世界的レジェンドの名を冠する「レジェンド倪夏蓮」ラケットがVICTASから発売する。
「それまでもVICTASのラケットとラバーに満足していたけれど,自分の名前のラケットができるのは最高の気分です。硬すぎれば粒高の変化は出ない、軟らかすぎると速攻で決定打を使えない。その微妙なバランスをこのラケットは解決してくれた」(倪夏蓮)
グリップには白木に好きなレッドを配した。もちろん還暦のお祝いではない。さらに勝利を欲するアスリートのための一本が作られた。

「卓球は特別なものですね。小さい頃はただ単に将来、卓球選手になりたい!と思いながら、人生は変わり続けた。中国が開放され、私はルクセンブルクに移り、今の夫トミーと出会った。人生は何が起こるかわからない。でもね、卓球にはとても感謝しているの。たくさんの人と出会い、友だちもでき、人生がとても素晴らしいものになったんだから」。

19歳でもらった世界の金メダルよりも、58歳で胸にかけた銅メダルのほうが輝いているように見える。60歳を過ぎてもオリンピックに出場し、世界の舞台で活躍する倪夏蓮を見てみたい。勝っても負けてもベンチに戻り、最高の笑顔を見せる女性アスリート。年齢なんか関係ない。卓球を楽しむ心がある限り。
 (文中敬称略)■ (卓球王国2022年3月号より)

倪夏蓮●ゲイ・カレン/ニィ・シアリエン  
1963年7月4日生まれ、中国・上海出身。1983年世界選手権で団体・混合ダブルスで優勝。1985年世界選手権で女子ダブルスで準優勝。1989年にドイツに渡り、翌年ルクセンブルクに移り、ヨーロッパ選手で2回優勝、ヨーロッパトップ12で3連覇。五輪は5回出場。世界ランキングは最高位4位(1998年)。2021年世界選手権ヒューストン大会の女子ダブルスで銅メダルを獲得した

絶賛発売中!

●ペンホルダー中国式
●7枚合板
●重量:80±g
●板厚:6.0mm
●19,800円(税込)