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江嘉良物語 1980年代を駆け抜けた
速攻のスーパースター
世界の卓球を「スピード」に
導いた江嘉良

江嘉良は1964年3月3日に中国の広東省中山市に生まれた。7人兄姉の末っ子だった。父が卓球をやっていたが有名な選手ではなく、7歳の時に卓球を始めて、父が教えてくれた。すぐに才能を発揮したのか、2年後には中山市を離れ、省都の広州市に移った。「家は貧乏で食べ物も十分ではなかった、私がいなければ家の負担も軽くなります」時に1971年、世界選手権名古屋大会があった年で、中国は文化大革命の後期だった。13歳の時に広東省のナショナルチームに入った江嘉良は、15歳の若さで国家チームのメンバーに抜擢された。そしてその年の10月には日中交歓卓球大会で初来日。中国の期待の高さがうかがえる。

本来、「江嘉良」(ジャン・ジャリァン/コウ・カリョウ)だった。初来日した時に「江加良」と記され、それ以来、日本では江加良と表記されてきたが、本名の漢字は「江嘉良」である。

1987年に世界選手権で2連覇した後のインタビューで江嘉良は語っている。「国家チームでは許紹発コーチが担当コーチで、私にとって全く新しい教え方でした。いろいろな技術はもちろんですが、緊張した時にどう戦い、調子の悪い時にはどうするのかという精神面のことも教えてもらいました。選手とコーチの関係は強いもので、許コーチは親のような存在です」(1988年TSPトピックスより)。

1950年代後半から日本に対抗するように中国は世界で台頭してくる。大振りでフォアハンド攻撃とフットワークを武器にヨーロッパのカットマンや攻撃選手を破り、世界制覇していく日本に対して、中国は同じペンホルダーを操り、参考にしながらも「日本に勝つための」卓球スタイルを作っていく。それは、日本のフォアハンド攻撃を封じるための打球点の早いピッチ打法で、右打ち左押しと言われるような、クイックモーションのサービスからの速攻戦術だった。しかし、1970年代に入り、ヨーロッパの両ハンドドライブスタイルが出現し、1979年にハンガリーが中国の男子を破って世界タイトルを奪うと、中国はすかさずシェーク異質攻撃型やアンチを使った変化サービスとパワー攻撃、そして郭躍華のような独自のペンドライブ型を作った。そして中国伝統のペン表ソフト速攻型は、江嘉良、陳龍燦のようなドライブを取り入れた速攻スタイルを作り上げた。

1980年代、世界を制した江嘉良の前陣速攻タイプ。頂点ドライブとスマッシュ、鉄壁のブロックを備えていた

江嘉良よりも2歳年上だが、国家チームに遅く入った偉関晴光(中国名:韋晴光)は当時を振り返る。
「江嘉良のフォームは本当にきれいだった。姿勢もブレないし、フォアの正確な連続攻撃のテクニックは間違いなく世界ナンバーワン。まさに前陣速攻の教科書ですよ」(卓球王国2021年1月号より)。
初の世界選手権は1983年東京大会で、19歳ながら団体戦の主力メンバーとして起用され、シングルスでは3位に入り銅メダルを獲得している。「調子は良かった。まだ若かったし、怖いものなしでしたね。準決勝で郭躍華と対戦し、ゲームオール(21点制)17‐15とリードしたところで少し安心して逆転負けしました」 そして迎えた1985年の世界選手権イエテボリ大会。「郭躍華が引退して、中国のエースとして教育を受けて、大きなプレッシャーを感じました。100%の出来でしたね」。江嘉良は団体とシングルスの2種目で優勝し、名実ともに世界の頂点に立った。

2年後の1987年世界選手権ニューデリー大会のシングルスの決勝、江嘉良対ワルドナー(スウェーデン)の試合は世界卓球史上、語り継がれる試合となった。 体調不良で団体戦を欠場したワルドナーはげっそりした姿でシングルスに登場するも、縢義、陳龍燦を連破し、決勝で江嘉良と対峙した。第1ゲームを21‐14でワルドナーが取り、2ゲーム目も9‐3とリードした後、ワルドナーはこの試合は勝てると感じていたが、江嘉良は戦術を変えた。「そこから彼はツッツキをガツンと切り、バックのショートもカット性にしてきた。ぼくはバックハンドのネットミスが続いた」(ワルドナー)。 江嘉良は攻めることをやめずに21‐18で取り返した。3ゲーム目も21‐11で連取し、江嘉良は優勝に王手をかけた。
4ゲーム目、20‐16とワルドナーはゲームポイントを握り、誰もが最終ゲームにもつれると思ったが、ここから江嘉良は猛反撃。24‐22で逆転して、世界2連覇を決めた。両手を高々と上げ、そしてベンチに戻る時に重圧から解放され、涙がこぼれるのを抑えられなかった。 敗れたワルドナーは後に振り返り、こう語った。「江嘉良は他の中国選手と違っていた。技術的には縢義、陳龍燦のほうがすぐれているかもしれないが、精密機械のようであり、そこに石を投げ入れるとマシーンが壊れた。ところが江嘉良は試合中にすぐに戦術を変えてくるし、大切なラリーになればなるほどちからを発揮する選手だった」(『ワルドナー伝説』(卓球王国刊)より)。

1987年世界選手権ニューデリー大会で、中国選手を連破し たワルドナーを決勝で食い止めた江嘉良が、世界2連覇を 達成。多彩な技術だけでなく、強靭なメンタルを見せた

「結果は3‐1で勝って優勝できたけど、各ゲームが競っていて1‐3で負けていてもおかしくない試合だった」(1988年TSPトピックス「TALK」より)。

中国の国家チームでのチームメイト王会元(元世界3位・現龍谷大職員)はこう評した。「江嘉良はフォアハンドの強さと、フットワーク、動きながらのバランスは素晴らしかった。彼の前の時代のペン速攻型はドライブされたらブロックしかなかった。江嘉良はサービスからの3球目強打、ドライブに対するカウンタースマッシュ、表ソフトでありながら回転のかかったドライブを打てる、というように新しい技術を取り入れたペン速攻型を作った」。

1985年と言えば、まだ中国は完全に開放されていた時代ではない。もちろん自由に海外に行ける時代でもなかった。そんな時、世界選手権で優勝し、直後の記者会見で江嘉良は流暢な英語で質問に答え、海外メディアを驚かせた。

「ぼくも江嘉良が英語を話せるのを知らなかった」と王会元と言えば、「練習が終わってから隠れて英語を勉強していたんだ」と江嘉良は笑った。少年時代から江嘉良は世界チャンピオンを夢見て、「中国選手として初めて英語で会見する」ことさえも考えていたのかもしれない。勉強家であり、野心的な一面、明晰な頭脳は彼の卓球でも生きていた。

現在の江嘉良氏

現在、VICTASのアドバイザリースタッフとして活動する江嘉良が『レジェンドシリーズ』の速攻ラケットを共同開発した。現代卓球に適合する中国式ペンホルダーの誕生だ。 現役時代のラケットは、1960年代の中国の世界チャンピオン、郗恩庭(シー・エンティン)、許紹発(シュウ・シャオファ)が使用していたものを譲り受けて使用していたと言う。 現役時代は表ソフトを貼り、裏面は木地のままだったが、現代では表ソフト速攻スタイルでも裏面にラバーを貼る選手が多く、江嘉良自身も卓球セミナーでは裏面に裏ソフトを貼り、裏面打法を披露している。
「私は表ソフト、裏ソフトの両方を打球した時に、ボールの球持ちと食い込みにこだわっているので、その感触を満足させるラケットを作りたかったし、打球音にもこだわった」 表面材は白っぽい材質のものを好み、江嘉良の好きなネイビーをグリップの差し色に使った。もともとVICTASのペン中国式はやや幅広のグリップで、これはスマッシュの時に面が安定するので、江嘉良はグリップ形状をキープした。 巧みな台上プレーと、連続攻撃によってペン表ソフトの速攻で試合で勝ちたいならば、このラケットを使わない選択肢はないだろう。

1980年代を駆け抜けた速攻スタイルのスーパースター、江嘉良。まさにペン速攻の『ザ・レジェンド』は『江嘉良』ラケットして現代に蘇った。

江嘉良●ジャン・ジャリァン/コウ・カリョウ
中国・広東省出身。1983年世界選手権東京大会団体優勝、シングルス3位。1985、1987年世界選手権シングルス優勝

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●ペンホルダー中国式
●7枚合板
●重量:85±g
●板厚:6.6mm
●19,800円(税込)
 CHN:310333

(1)江嘉良 The Legend Series
https://www.victas.com/ja_jp/products/blade/legendseries/jiangjialiang